生い立ち (1) 家族
まるで実感はないのだが、
本日、5月5日の裁判をもって、12年間続いた離婚裁判に
終止符が打たれた。
5年、あるいは10年間付き合った女性と結婚することもなかった私が、
名前しか知らない女性と、たった2週間の付き合いで結婚してしまった。
今考えれば、無謀である。
たった2年間の結婚生活の後、12年間も離婚に費やすなんて思ってもいなかった。
離婚裁判が長引いてしまったことに対して、私の弁護士が、
申し訳なさそうに何度も謝っていた。
そして、相手の弁護士もまた、私に謝ってきた。
彼女の弁護士は、これで3人目だった。
過去の2人の弁護士達は、彼女側であるにもかかわらず、
「彼女の目的が分からない・・・」
と言いながら、彼女と揉めた挙句、彼女に解任させられていった。
それは、何だったのだろう・・・
女の意地なのか、憎しみなのか・・・・金なのか・・・
少なくとも、「愛」でないことだけは確かである。
何かを争っていたわけではない。
私が何か「否」を犯したわけでもなかったので、慰謝料などは
存在しないが、(元々、アメリカには慰謝料は存在しない)
私は、彼女に一軒家も譲り、店が火事により1年ほど営業出来なかった時も、
ホームレス状態で車に寝泊りしながら仕事を続けていた時も、
この12年間欠かさず充分な生活費を送金してきた。
おかげで、私は膨大な借金を背負ってしまった。
だが、こういった私の人生は、宿命なのだとも最近思う・・・
もちろん、お金だけの問題ではないが、
もし、私が自分の親父がそうであったように、家に金も入れず、
たまに帰ってきては、暴力を振るい、家族に借金までも残すような
不良親父であったなら、もしかして相手から
「何もいらないから、お願いだから早く別れてください」
と、スムーズに離婚できていたかもしれない・・・・
だが、私の心の奥には、ずっと昔から潜在的にあった気持がある。
「親父のような人間だけにはならない」と・・・
「俺達兄弟や自分の母親が味わって来たような思いを、
自分の子孫には絶対にさせない」
「自分がもし父親になったとき、たとえ家族の側にいられなくても、
自分が、そして子孫が、世間から後ろ指刺されるような、
そんな生き方はしない」と・・・・
幼少の頃の話を少ししたいと思う・・・
私は、断片的ではあるが、2歳からのいくつかの記憶がある。
目を手術したこと・・・
手術室に行くまでの廊下で、私は看護婦さんの手を握りながら、
「痛くない?」
としきりに聞いていた。
ずいぶん歳の離れた姉貴が、私をおんぶして母親の働く
ミシン工場の職場まで連れて行ってくれたこと・・・
公園で砂遊びをしている私を見下ろしながら、
「あなたに弟が出来たのよ」
と言っていた母親の笑顔・・・
もの心ついた頃の私達家族の生活は貧乏だった。
正確に言うと、私は小学生になってからやっと
「この生活が、世間で言う<貧乏>なんだ」
と、気付き始めた。
それが救いと言えば救いである。
何よりも、「家族」というものの定義がハッキリしていなかった。
東京世田谷の川べりに竹やぶがあった。
その竹やぶの中にひっそりと6部屋2階建ての木造アパートがあり、
その1部屋に我々は住んでいた。
六畳一間に、共同便所、共同台所、風呂無しという、
要するに部屋ひとつしか住むスペースのない所なのだが、
そこに、ばあちゃんと、当時高校を卒業したばかりの姉貴と
高校生の兄貴、私の母親、そして私の5人がぎゅう詰めになって住んでいた。
「私の母親」と書いたのは、姉貴と兄貴の母親は別の人で、
もう死んでしまったと言っていたからだ。(実際は死んでいなかったらしいが・・・)
母親と姉貴は、7~8歳ほどの歳の違いしかなかったが、
姉貴は母のことを「ママ」と呼んでいた。
兄貴は、それが照れくさいのか、あるいは自分の本当の母親に
遠慮しているのか、「玲子さん」と母を名前で呼んでいた。
ばあちゃんというのは、父親の母であり、母親にとっては、
私が唯一の血縁であった。
もっとも、当時2~3歳の私には、そんなことどうでもいいことである。
六畳一間に5人で生活するというのは、試してみれば分かると思うが、
かなりシンドイことなのだ。
押入れがひとつあったが、その中にはかけ毛布が数枚と、
それぞれの服が、たたまれて置いてある。
敷布団や枕など見たこともない。
タンスのひとつもなく、テレビも電話も・・・・・・そう、何もなかった。
そもそも、それらの物を置くスペースさえもない。
あるものと言えば、小さいちゃぶ台がひとつと、
兄貴が大切にしていたトランジスタラジオだけである。
私にとって「苦」だったのは、物がないことではなかった。
だいたい、幼い私には「物がない」という意識すらなかった。
寒ければ、ぶるぶると震えて我慢すればいい。
暑ければ、汗だくになって我慢すればいい。
季節があるのだから、寒かったり、暑かったりするのは
当たり前のことだ。
「家族のあり方」も「生活環境」も、全て「他」を知らなければ、
それが当たり前なのである。
ただ、「空腹」だけには勝つことが出来なかった。
だがこれも、どんなに金持ちの家庭に生まれてきた人間だとしても、
腹は減るので普通のことだ。
私が栄養失調にもならず(むしろ健康優良児だった)、
生きてこれたのは、家族の愛があったからだと思う。
3歳くらいまでの私にとって、一番の悩みは「夜中のトイレ」だった。
その共同便所は、野外にあって一度外に出なければならない。
真っ暗な竹やぶの中を通って行くのだ。
おそらく、アパートの出口から7~8メートルほどだったのだろうが、
当時の私にとっては、何百メートルにも続く魔界への道のりだった。
私は、いつ自分がオシメを卒業したのかを覚えてないが、
1人で用を足せるようになってから、家族の寝ている部屋を出て、
その便所まで歩いていくのが怖かった。(ほとんど1人では行けなかった)
まして、ボットン便所だったので、落ちてしまうんじゃないかとか、
カッパの手が伸びてくるんじゃないかとか、想像を巡らし、
寝ていても、夢と現実が交差して何度もカッパに襲われた。
まあ、その程度である。
朝起きると、ばあちゃんはいつも裏の川で洗濯をしていた。
兄貴は、毎朝新聞配達を終わらせてから高校に通い、
夜は部屋の外の共同台所の隅にみかん箱を置いて、
ロウソク一本の灯を頼りに、大学の受験勉強をしていた。
お蔭で視力が落ちて、家族内では唯一メガネをかけていた。
そんな兄貴は獣医になりたいと、いつも言っていた。
そこに今度は、弟がやってくる・・・
ばあちゃんも、上の兄弟2人も、私には本当に優しくしてくれた。
母親が働きに出てる間、姉ちゃんはよく私と遊んでくれた。
雪が降るある冬の日に、いつもの如く私が
「お腹すいた」
と言うと、姉貴は困った顔をして少し考えた後、ニコニコしながら外に飛び出し、
雪をお椀に山盛り入れて、そこに砂糖水を垂らし、
「カキ氷だよぉ~」と言って食べさせてくれた。
ぶるぶると震えながら、姉貴とそれを食べた記憶がある。
兄貴は週に2回、近所の銭湯に連れて行ってくれた。
ばあちゃんは時々こっそりと私にコンペイトウを一粒くれた。
そんな生活に弟が加わって間もなく、私と弟の2人は
昼の間だけ、ある保育施設に預けられることになった。
内職で「甘栗の袋」を作っていたばあちゃんの他は、
昼間は留守なので、まだ幼かった私や弟の面倒を見れる
人がいなかったからだ。
弟は0歳から預けられていたので、施設ではいつも泣いていて、
先生達が困っていた。
そういう時は、私が弟のいる部屋に呼ばれて、弟をあやした。
私を兄貴と判っていたのかどうか知らないが、私が行くと
不思議と弟は毎回ピタリと泣き止み、機嫌がよくなるのだ。
私はまだ幼かったので、何も気付いてはいなかったけれど、
家族は皆、常に空腹だったんだと思う・・・
時々、夜になると兄貴が
「散歩に行って来る」と言って出かけることがあった。
しばらくして、泥の付いたままの大根やキャベツを持って帰ってくる。
それを煮物にしたり、炒めたりして、全員でひとつの皿を無言で突くのだ。
その頃は、深く考える余地もなかったが、それらの野菜たちは、
明らかに八百屋から買ってきたものではなかった。
「塩」だけで、ご飯を食べることもあった。
兄貴は、畑の野菜の採り方を教えてくれたことは一度もないが、
道端に生えている食べられる雑草や、木の皮などの種類を教えてくれた。
ある時、私は皆が食事をしているちゃぶ台の下に潜って遊んでいると、
母が自分の食べている御飯を、ひざ元に隠してあった新聞紙に
こっそりと乗せ、他の皆に分からないように包んでいたのを、偶然見てしまった。
私は、ちゃぶ台の下から母親に
「何してるの?」
と聞くと、母はとっさに私の口をふさぎ、
「こんなところに潜って遊んだらダメでしょ!」
と言って、何もなかったかのように、大人同士の話を始めた。
あの頃は夜中に皆が寝静まった時間になると、
私はお腹がすき過ぎて、寝ている母を起こすことが度々あった。
そんな時、母は他の皆を起こさないように、そーっと私を共同台所に連れて行き、
どこからともなく握り飯を作って食わしてくれた。
中には何も入ってないし、海苔も巻いていない、
冷たくてゴワゴワした握り飯だったが、
ちょっと塩味がして美味しかった。
私は、台所の母親が見ている横でそれを食べ、
部屋に戻って、安心してまた眠りに就くのだ。
母が自分の食べる米粒を、時々ちゃぶ台の下で隠していたのは、
私に食わせるためのものだった。
母は、あの家族の中でも、私と弟がいることによって何らかの片身の狭い
思いをしていたに違いない。
だが、それはきっと母親だけではなく、ばあちゃんも、姉貴や兄貴も
それぞれが違った状況や環境の中で、それぞれの思いがあったはずなのだ。
それでも私にとっては、あの頃の「家族」が一番家族らしい「家族」だった
のかもしれない・・・・
続く
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コメント
私の家も貧しく やはりアパートの六畳一間に
家族5人で住んでました・・・思い出してしまいました
投稿: 紅弁天 | 2008年11月29日 (土) 21時24分