カテゴリー「生い立ち」の記事

2008年12月23日 (火)

生い立ち (6) 親父

私と弟は、さほど気にしていることではなかったが、
週に1度程、私が寝入ってしまった後の夜更けに帰って来ていた親父も、
いつしか2~3ヶ月に一度しか家に寄り付かなくなっていた。

親父が帰ってくる日は、すぐに分かった。

そういった日は大抵、母親が夕方から化粧をしているからだ。

スラム長屋の前の細い砂利道を、道幅いっぱいに黒塗りの国産車が
砂けむりと共にやって来て、そのオンボロ長屋に横付けされると、
運転席と助手席から、これまた真っ黒なスーツにサングラスを掛けた
大男2人が降りてくる。
そのうちの1人が後部座席のドアを開け、そこから親父が降りて来るのだ。

親父は、いつも一晩だけ家に泊まり、次の朝早くにまたどこかへと出かける。
その間、大男達はずっと隣りの空き地に駐車した車の中に待機している。


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一度母親が、

「お茶の一杯でもどうですか?」

と、車の中にいるその男達に声をかけたことがあったが、
彼等はかたくなに拒むので、母は彼等のために握り飯をこさえた。
私は母に頼まれ、その握り飯と水筒に入れたお茶を車まで
持って行ってあげたことがあった。
ちょっと怖かったが、その2人は喜んでその握り飯を食べてくれた。

彼等は私のためにチラシ広告の裏に「鉄人28号」の絵を書いてくれたり、
いろんな「お化け話」などをしてくれたりして遊んでくれた。

だけど、親父は一度もそうやって私達と遊んでくれたことはなかった・・・

それでも、私と弟には父親が帰ってくる日を楽しみにしていた頃もあった。

必ず何かおみやげを持って来てくれるからだ。

それはクレヨンであったり、画用紙であったり・・・

時には、バナナの苗木を抱えて来ることもあった。

食べられるバナナではなく、バナナの木だ。

そのバナナの木を母と弟との3人で、庭の土に埋めた覚えがある。
いつバナナの実がなるのか、いつも楽しみにしていたが、
時が経つにつれ、そんなバナナのことも忘れてしまっていた。
それでも木はどんどん大きくなっていた。

その木に初めて小さなバナナの房が付いたのは、あの苗木を植えてから
9年後の夏だった・・・
それは、皮肉にも市の区画整理のために私達が住んでいた長屋が
取り壊される寸前のことだった。


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なぜあの時「バナナの木」だったのか・・・・

それは、親父がフィリピンから持ち込んで来たものだった。

当時の私は、親父が何者かなんて知らなかった。
ただ、分かっていたことは、あの頃の親父はフィリピンを拠点にして、
世界中を飛び回っていたということだけだ。

親父は、国際的な警備会社を立ち上げたらしく、
フィリピンの大統領の護衛に就いていた。

当時のフィリピンは、マルコス大統領の独裁政権下にあり、
大統領は、いつ命を狙われてもおかしくない状況下にあった。

父親がたまにフィリピンから家へ送ってくる手紙の内容までは忘れたが、
手紙と一緒に入っていた写真には、マルコス大統領や
イメルダ夫人と一緒に写っている父の姿があった。


あの頃の電話帳に登載されていた私達の家の番号を引くと、
ここの長屋のボロ部屋の住所は、いくつもの会社の事務所として
登録されていた。

そこには、警備会社の他、探偵事務所、精密機械工場、
はてまた、極東○○連合支部などという訳の分からない名が
登載されていた。

ここは、ただのオンボロ長屋なのに・・・・・

なぜフィリピンだったのかは、後に私の姉貴に聞かされて納得した。


話がややこしくなるので、ここで少し私の知っている限りの
親父の人物像を記しておく。


父は大正15年(大正最後の年)生まれなので、
現在は84歳であろうか・・・・

先の大東亜戦争(第二次世界大戦)の折、
10代だった父は戦闘機部隊としてフィリピン戦線に駆り立てられた。

その時にフィリピンの、ある政治結社と何らかのコネクションを作り上げたようだ。

父がちょうどハタチの時に終戦を迎え、本籍の広島に戻って
地元で愚連隊?を結成した後、東京に進出して来た。

その後の20年間のことは知らないが、日本とフィリピンを往復しながら、
何かの仕事をしていたらしい。

40歳になった父はお袋と知り合い、結婚した。
だが、その時父には、すでに何人かの子供が存在していた。

私が姉貴と呼んでいる人は、父の一番最初の子供だが、
その下に兄貴がいて、この2人は、あの6畳一間で私と一緒に暮らしていた
兄弟である。

その兄貴と私の間にも、また違う異母兄弟が日本各地に存在するようだが、
私は直接会ったこともなければ、情報もない。

姉貴はもうすでに60歳を超えているので、私とは20歳近く歳が離れている。

父には現在も、どこかの国に現地妻と6歳になる娘もいると言うから、
一番上の姉貴とは、50以上歳の離れた姉妹が存在することになる。
ちょっと考えにくいことだが事実である。

いったい、私には何十人の兄弟がいるのだろうか・・・

これらの情報は全て、姉貴からのものだ。

後に獣医となった兄は、今でも時折フィリピンを訪れているので、
姉貴の情報源は、兄がそこで父と接触した内容を聞いているのだろう。

私は父親について、兄と直接話しをしたことはなかった。

だいたい父の情報なんて、私には必要なかった。
しかし、姉貴はというと、我々が聞いてもいない色々な情報を、
わざわざ電話までしてきて私や私の母に話すことがあった。

その度に母は、悲しそうな顔をするので、止めてもらいたかった。


私の母、私、そして私の実弟の3人にとって不幸だったのは、
父と母が正式に結婚していたことである・・・・

普通なら、側室や内縁の妻でないことは、
母にとって決して不幸なことではなかったはずだ。


しかし、これも母の選択だったのだろう・・・・

私達3人は、後に膨大な借金を背負わされ、路頭に迷うことになる・・・・・・

                 続く
              


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2008年12月 8日 (月)

生い立ち (5) 崩壊

私達兄弟にとって、電化製品などの生活用品と
引き換えになったものがある。


・・・母親との時間である。

野菜などの食料品を貯える冷蔵庫と、テレビさえあれば、
5歳の私ともうすぐ3歳になる弟の2人が、
家で留守番をすることが可能であることは、母親には理解できていた。


父親が家に帰ってくる日は次第に少なくなっていった・・・

母は、毎朝私達2人を自転車に乗せ、近くの保育園へ送り、
そのまま勤めに行くようになる。

最初の頃は、夕方に母が迎えに来て、3人で「夕焼け小焼け」を
歌いながら家路に着き、母親の作った夕食を3人で食べていたけれど、
今思い起こせば、私達親子3人が食卓で顔を見合わせながら
食事を共に出来たのは、せいぜいこの頃までである。


いつしか、母親は夜まで仕事をするようになって、家に帰ってくる時間が
段々と遅くなってきた。
そのため、私は、朝出かける前には必ずヒモにくくりつけられた家の鍵を
首に巻かれ、保育園の帰りは弟と2人で歩いて家に戻るようになった。

いわゆる「かぎっ子」の生活が始まる。

誰もいない家に戻ると、我々は自分達で晩飯をこさえて食事を済ませ、
母親の帰りを待つという生活が続く。

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2歳の頃からの記憶を鮮明に思い出せる私にも、
この頃から小学生に入学するまでの1年半近くの記憶だけは、
まるで飛んでしまっていた・・・・

と言うよりも、自分自身のなかで封印してしまっていたのかもしれない。


その1年半の間に起きた出来事の記憶が初めて蘇ったのは、
私が大人になり、結婚をし、息子が出来て、その息子がちょうど
あの頃の私と同じ歳になった時であった。


   ---------------------------------------------

私が30歳、息子がちょうど3歳の時に、私は初めて一軒目の自分の店を
開いた。
まだ独身だった頃に買った家のローンもあり、店を起動に乗せるために・・・
・・・・それよりも、潰さないために必死で働いた。

店の場所は、魚市場などがあるダウンタウンから車で40分ほど東に行った
場所にあるのだが、家の場所はその店から、さらに東に40分以上かかる
場所にあった。
それはどういうことかと言えば、家から市場経由で店にたどり着くのに
120分(2時間)を要するということだった。

何でそんな不便な場所に・・・と考えたが、ほとんど金の貯えもなかった私が、
家を買ったり店を出したりするのに、場所を選べる状況ではなかったのだ。

当時はまだ私が自分で市場に毎朝仕入れに行き、
仕込みから開店の準備、調理、経理、片付けまで全てをこなしていた。

オープンから2年後には、店の2階を改装してカラオケバーも始めた。

私は、朝の8時までには市場に出向き、それからカラオケバーが終わる
夜中の2時までぶっ通しで働いた。
その後も伝票の整理や経理の仕事をして、家に帰ってそのままベッドに
倒れ込むのが明け方の4時・・・・
そしてまた朝8時の仕入れに間に合うためには、
家を6時半には出る必要があった。


睡眠時間は2時間。

いくら若かった私でも、こんな生活を続けるのには無理があった。

案の定、ある日私は帰宅途中に居眠り運転で事故を起こしてしまう。
幸い、相手は路側帯に生えている木であったため、怪我人はなかった。

衝突した2本の木は、ぶつかった衝撃で倒れたため、
車(バン)は、無残なカタチで廃車になったが、私自身は怪我を間逃れた。

この木がコンクリートの電柱であったら、
私は間違いなく死んでいたに違いない・・・


潰れてしまった車を見つめながら、私は考えていた。

「どんなに必死で働いても、死んでしまったら何の意味もない・・・・」

それは当たり前のことではあるが、
当時の私は仕事に夢中になり過ぎて、そのことを忘れていた。


それからの私は、少しでも多くの睡眠時間を取るために工夫をした。

スクラップになってしまったこれまでのバンよりも、
もっと大きな中古バンを購入し、荷物を載せるスペースの他に、
さながらキャンピングカーのような仮眠の出来るスペースも確保した。

週末以外のときは、バーでの仕事を終えてから帰宅せずに
直接市場に行って、そこの駐車場で車の中に寝ることにした。

経理の仕事は昼の暇な時間に済ませるようにしたので、
市場には遅くとも夜中の3時には着いた。
朝の7時に買い入れを始めるとしても、4時間は寝れる。

私の店の屋根裏にはどういう訳かシャワーも付いていたし、
車の中で寝ることも、慣れていたので、
私にとっては、何も問題はなかった。

だが、そんな私の「工夫」は、当時の妻には理解されていなかった。

元々2週間の交際だけで一緒になってしまった相手だったので、
お互いの名前は知っていても、考え方や生き方も、
それまでの生活環境やバックグランドさえも何も分からなかった。

彼女にとっては、全てが計算違いだったのかもしれない・・・

まして、レストランという過酷な自営業となってしまった私の仕事や生活は、
サラリーマン家庭に育った彼女にとっては、
想像すらできなかったはずである。


彼女には家を預け、子供の世話に専念してもらい、
充分な生活費を入れていたが、彼女の不満は私の不規則な労働時間も
ひとつの原因となっていたようだ。

毎日必ず決まった時間に帰り、週末には子供を連れて遊びに出かける・・・
そんな生活を期待していたのかもしれない。
現に私は、子供のオシメのひとつも替えた事がなかった。

彼女はよく私に言っていた。

「子供とあまり接しないから、子供があなたになついていない」と・・・

しかし、それは勘違いである。

私には、息子の気持が手に取るようにわかる。
父親と息子のリレーションは、共に過ごす時間だけでは計れない。
そこには女には理解できない男同士の「絆」が存在する。

どんなに仮面をかぶって夫婦をやっていても、子供というのは敏感に
父と母の関係を見抜くものだ。

関係の悪い夫婦の間に立たされる子供は、子供なりに気を使うものなんだ。

私もそうであったが、仮面夫婦の子供(男子)は母親の目の前で、
父親に甘えようとはしない。
それは、母親と関係の悪い父親に甘えることを、父親ではなく、母親に対して
遠慮しているからだ。

私の息子も母親のいる前と、そうでないときの私に対する態度は
まるで違う・・・
母親は、そんな父と子を見て、「なついていない」などと心配する必要は
まったくないのだ。

まあ、あくまでもこれは特殊なケースで、
一般的な家族には当てはまらないだろうが・・・


今も昔も、私の「理想の父親像」は変わっていない。

「家族団らん」も大切なことだろう。
確かに私もガキの頃は、他の父子のようにキャッチボールのひとつも
したいと思ったことはあった。

自分の父親に頭を撫でられたこともない・・・

でも、そんなことよりも、たとえ側にいない父親でも、
男として、母親や俺達を守って欲しかった・・・・

遠くにいても、家族を守れる男だけが、
「父親」と呼べるものだと・・・今でもそう思ってる。


私にとって、その手段は仕事以外の何でもなかった。
それが正しいとか間違っているとかは別として、
私にはそんな生き方しか出来ないのだ・・・・

息子の母親は、ことあるごとに私に噛み付いてくるようになり、
次第に家の中は散らかり始め、ささいなことで口論することが
多くなっていった。

夫婦喧嘩ほどエネルギーを使って、無駄なことはない。

よく分からないが、女というものは、ああいう生き物なのだろうか・・・

昨日「青」だと言っていたものが、今日になると「赤」だと言って
発狂する。

私は大抵の挑発にも乗らずに、右から左へと受け流すように勤めた。
何よりも、子供の前で喧嘩することだけは、避けようとしていた。

しかし、あるとき私はそんな彼女の挑発に乗り、
子供のいる側で、彼女に怒鳴り返してしまったことがあった。

彼女はまるで噴火山の如く爆発して、わめいていた。

理由など覚えてやいない・・・

所詮そんなものである。

きっと私も怒鳴り散らしていたのだろう・・・・


その時、口論中の私と彼女は、気付いてはいなかった・・・

5歳の息子は、泣きながら歯を食いしばり、両手を合わせ、
身体を震わせながら、どうしていいのか分からずに
辺りをウロウロとしていた。


そして、息子は顔をクシャクシャにしたまま、
震えた声で必死に私達に向かって叫んだ。


「ごめんなさい!! ボクが・・・ボクが悪かったから・・・ごめんなさい!!」


私は、息子のその言葉を耳にした瞬間、
背筋が凍りつくような感覚を覚えた。
腕には鳥肌が立ち、一瞬にして涙が溢れた。


息子の口から出たその言葉は、何十年もの昔・・・
そう・・・私が5歳のときに口にした言葉、そのままだったからだ。

その瞬間、私の脳の中で封印されていた当時の記憶が
走馬灯のように蘇ったのだ。


我々の夫婦喧嘩の理由など大したものではないし、
まして息子のせいでもなければ、息子が原因のものでもない。
当然、息子もそれは知っている。

だが、自分を悪者にしてでも、とにかく父と母の喧嘩を
食い止めたかった・・・・
いや、自分にはどうしようもできない状況の中で、
今ある悪夢のような状態から脱出する方法が見つけられないままに、
口に出てしまった言葉・・・・


そして、息子はその後に、嗚咽しながらも精一杯言った。

「いい子になるから・・・お願いだから、喧嘩しないで・・・」

私は、自分が恥ずかしかった。

自分の幼少の頃の感覚を身にしめながら、息子の側に寄り、
息子を強く抱きしめた。

息子の母親は、そんな私の姿を見ておとなしくするどころか、

「何を急にそんなに良い父親の真似をするわけ?  
普段は家にもいないくせに、そうやって父親ぶってんじゃねーよ!」

そう言って、依然とわめいていたが、私にはもう彼女に言う言葉は
何もなかった。

私の中で、何かが吹っ切れた時だった・・・


元々ほとんど接点のない夫婦ではあったかもしれないが、
たとえそれが仮面夫婦であったとしても、
たとえそれが空想の家族であったとしても、
子供のためには、それで良いと思っていた私の気持が
間違いだったと、そう気付いた瞬間だった。


考えてみれば、幼少期の私にとっての不幸は、
父親がいないことではなかった。

今の私と、当時の私の父親との状況はまるで違うが、
もし、自分の父親が家に帰らなくても、たとえ離婚したとしても、
母親に危害を加えない父親ならば、私も、もう少し親父のことを
理解できていたに違いない。

   --------------------------------------------


さて、私がしばらく自分の記憶から抹消していた時間・・・

5歳だった時の頃に話を戻そう・・・・

                   続く


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2008年7月23日 (水)

生い立ち (4) 帰ってきた男

私がもうすぐ5歳になろうとしていたある冬の寒い晩・・・
食事を終えた私と弟が少し眠たくなってきた時間に、
誰かが玄関のドアを叩く音が聞こえた。

母親はいつものように机に向かって仕事をしていたが、
その誰かのノックを耳にすると、すぐに仕事の手を止め玄関に向かった。

今日のお母さんは、いつもとは少し違う格好をしていた。
家にいるのに、化粧までしている。

母がドアを開けると、そこには1人の男が立っていた。
茶色のトレンチコートにボルサリーノ帽を深くかぶっている。
トランクカバンを持ったその手には皮の手袋をはめていた。
まるで、映画「カサブランカ」に出てくる「ハンフリー・ボガート」のような
いでたちだ。

その男は、玄関の中の床にカバンを置き、手袋を外しながら、

「遅くなったが、今帰った」

と言った。

そして、柱の陰から覗いていた私と弟の方を見て、

「お前達に、土産を持ってきたぞ」

そう言って、ブーツを脱ぎ始めた。

母は、驚く様子もなく、

「お帰りなさい」

と、一言だけ言うと、その男のトレンチコートを受け取り、ハンガーに掛けた。

母は、私達に

「<お帰りなさい>は? ・・・あなた達、覚えているでしょ? お父さんよ!
お父さんは、今日、外国から帰ってきたばかりだけど、これから一緒に
ここに住むことになるからね・・・」


「聞いてないよー!」って感じだったが、何も言えなかった・・・

もしかしたら、お母さんは事前に私達に話してくれていたのかもしれないが、
まったく頭に入っていなかった。

私は、その男が父親であるということを知っていた。
和美姉ちゃんの結婚式の時に会っていた覚えがある。
その時、和美姉ちゃんが、その男のことを「お父さん」と呼んでいた覚えがある。


その「父親」という男の脱いだブーツを母が揃えると、
彼は辺りを見回し、四畳半の部屋をくぐるようにして入った。
次に母が部屋の隅にあった1枚の座布団をちゃぶ台の横に置いた。
男は無言でその座布団に座り、もう一度ゆっくりと辺りを見回して、

「・・・それにしても、本当に何もないんだなー」

そうつぶやいて、懐から大人の親指ほどの太さの葉巻を取り出し、
小さなハサミのようなものでその先端をカットした。
今度は反対側のポケットからフランス製のライターを出し、
葉巻に火を点ける・・・
辺りには、一瞬にして嗅ぎ慣れない匂いが立ち込んだ。

母は、部屋のガラス戸を少しだけ開け、

「灰皿を用意してなかったから、これで我慢してください」

そう言って、ヒビが入って使用していなかった小皿を差し出した。


「玲子! ビールか何かあるか?」

私は、その男がお母さんことを「玲子」と呼び捨てにする、
その「響き」に慣れていなかったせいか、違和感を感じた。

「すみません、日本酒しかないんです。 それに・・・冷蔵庫がないもので・・・」

「・・・・・・そうか・・・ 洋酒もなさそうだし・・・だったら酒を燗にしてくれないか」

「ハイッ、今すぐ持って来ますね」

母は、酒を湯煎するためのお湯を作るため、台所へ向かった。


取り残された私は、彼を目の前に、何を話していいのか見当も付かない。

気が付くと、弟がその男の持ってきたカバンを開けようとしている。
私は慌てて、弟の手を引っ張った。

「ごめんなさい・・・」

私は彼に謝った。

おそらく、弟も私と同じように、そのカバンの中に入っているであろう
「おみやげ」が気になっていたに違いない。

「おうおう、忘れてた」

彼はそう言いながら、カバンを開け、2つの箱を取り出し、
私と弟にくれた。
それは、「プラモデル」という物であった。

「これはな、ドイツの<キングタイガー>って言う戦車と、もうひとつは
パパが戦時中に操縦していた<彗星>っていう日本の戦闘機の模型だ」


「パパ!???  パパって何だろう・・・この人は僕のパパ?」

そう心の中で叫びながら、この人をパパと呼ばなきゃいけないのかどうか
格闘していて、説明されたプラモデルの内容も、お礼を言うこともすっかり
忘れていた。


「タカアキ、 ちゃんとお父さんにお礼を言いなさいね」

台所から戻って来た母に、そう言われて、

「ありがとう・・・・ございます・・・」

と、私は小さな声でつぶやいた。

弟は、そんなこと関係なさそうに、その模型の箱を開けようとしている。
それほど複雑な模型ではなかったが、
私達にすれば、初めて手にする代物だったので、私と弟は少し興奮した。

私が、そーっと箱の蓋を開けると、弟が急に不機嫌になり愚図りだした。
弟は、箱の中に、もうすでに出来上がった戦車と戦闘機が入っていると
思っていたようである。
私は、弟に

「僕が作ってあげるから、そうしたらこれで一緒に遊ぼう」

そう言って、隣の部屋にそのプラモデルを持って行き、作ってみることにした。
弟も私に付いて来て、一緒に作りたがるのだが、
彼に触らせたら、部品も紛失しそうだし、私にとっては邪魔で仕方がなかった。
でも、そのうち弟はプラモの箱を抱えたまま眠ってしまった。

私も、気が付いたら眠ってしまっていた。

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どういった事情で今まで父親がいなかったのかは知らない。
そして、どうして父親がこれから突然一緒に暮らす事態になったのかも
分からない。

この世に生まれて、数年だけの人生経験では、どんな生活が始まろうが
どんな生活が終わろうが、もともと何の基準もない私達にとって、
何も不思議なことはなかった。


その日から、私達の家族は4人になった。
とは言っても、毎日夜遅くに帰ってくる父親とは、
ほとんど顔を会わせることがなかった。
父親が何の仕事をしていて、どこへ出掛けて行き、
いつ、どこから帰って来るのかも知らなかった。


大きな変化といえば、その頃を境に、色々な生活用品が家に入って来たことだ。
原始的な生活から、近代的で、文明的な生活になった。

手始めに、近所の電気屋が新品のテレビを持って来た。
白黒テレビではあったが、当時はそれでも高価な物だった。
テレビがうちに来ると知ってから、1週間は首を長くして待っていた。
電気屋がテレビを買ってくれたわけでもないのに、
電気屋のおじさんが軽トラックでそれを持って来た時には、
そのおじさんが仏様に見えた。

その時、父親は家にいなかったが、テレビにはリボンが巻かれていて、
おふくろと私、弟の3人は、はやる気持を抑えながら、
そのテレビの前にいったん正座して座り、つばを飲み込み、
手を合わせてからテープカットを行なった。
スイッチを引っ張ってしばらくすると、画面の中央に星が現れ、
人の声と共に画面が明るくなる。
今のテレビと比べれば写りも悪く、おまけに白黒、
受信できるチャンネルも3~4局で、番組は野球とニュース、アニメ程度で、
夜の10時には全ての放送が終了してしまう。
だが、自宅でテレビが観れることは、私達にとって画期的な出来事であった。

こうして、我々3人の拍手と喝采によって、人生初のテレビがこの家に
迎え入れられたのだ。
そう言えば、テレビを使用していない時には、専用の布袋をテレビにかぶせ、
ホコリが付かないように気を使っていた覚えがある。

今では、考えられない光景である。

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その数日後には、冷蔵庫、洗濯機、掃除機、コタツなどが
運ばれて来た。
家に電話が取り付けられたのも、この頃だった。


あまり顔を会わす事もなく、一緒に遊んでくれるわけでもなかった父親だが、
それらの電気用品を用意してくれた父親を、多分私は単純に好きに
なっていたのかもしれない・・・・

だが、それも・・・長くは続かなかった・・・

                    続く


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2008年7月16日 (水)

生い立ち (3) にぎりめし

引っ越して来た家は、今の日本ではほとんど見なくなった長屋形式の
部屋だった。
近所の人達はここを「スラム長屋」と呼んでいた。
家賃はひと月3千円と格安だったが、部屋は6畳と4畳半の2つあり、
なんと言っても嬉しかったのは、台所やトイレ、そして狭いながらも風呂場が
あったことだ。

台所といっても、流しはキャンプ場にあるようなコンクリートで出来ていて、
お湯などは出るはずもなく、冷蔵庫というものもなかった。
トイレは相変わらずボットン便所だったし、(もっとも水洗便所など見たこともなかった)
風呂の浴槽は真っ黒に変色した木製の樽で、
樽を巻いてある金具は緑色に錆びている。
底の方には、小さなボイラーのような物が付いていた。
プロパンガスのタンクからガスを引いて、このボイラーに火を付け、
浴槽に張った水を温めるのだが、このボイラーがまた古くて、
なかなか口火が点かず、火を点けるのにマッチ棒を3本は使う必要があった。
5回に1回は、やっとの思いで口火に火がが点いた途端に、
「ボーン!」という爆燃と共に爆風にさらされ、恐怖におののく。
何度も髪の毛とまつ毛を焦がした。

さらに、入浴できるギリギリの温度になるまでには、40分も掛かる。
入浴できるタイミングを見計らい、兄弟揃って素早く入らないと、
お湯が少しずつ漏れてなくなってしまう、といった代物だ。
その上、洗濯機も無かったので、入浴後の風呂のお湯が完全に
なくなってしまう前に、浴槽内で洗濯を済ませなければならない。

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それでも、これまでの生活と比べれば、天国のような暮らしだ。
もう、夜中に竹やぶの中を歩いてトイレに行かなくても済むし、
不便ながらも、自分の家で風呂に入れる。
凍りつくような冷たい川の水で洗濯をしなくても済む。
(ほとんど、ばあちゃんとおふくろがやっていたが・・・)
継ぎはぎだらけの「せんべい布団」ではあったが、敷布団も用意されていた。


こんな恵まれた家で、私と弟、母親の3人暮らしが始まった・・・・・

母は、さすがに4歳の私と2歳になる弟の2人を家に置いて、
働きには出られなかったのだろう。
家で仕事をするようになった。

以前は、ミシン工場で働いていたが、もともと母は商業デザイナーに
なるための勉強をしていた。
きっと、大した収入にはならなかったのだろうが、家では朝早くから
夜遅くまで、広告やチラシなどのレイアウトや、パッケージデザイン、
ロゴマークなどの製作をしていた。

昨今、コンピューターの普及により、グラフィックデザイナー人口は多いが、
当時は、全てが手書きによるものだったので、あまりメジャーな職種とは
言えなかった。

弟はまだ2歳で、母親に甘えたい時期である。
私なりに、母の仕事の邪魔にならないようにと、弟を外に連れ出して
遊ぶことが多くなった。
当然、外で遊ぶようになると、同い年くらいの友達が自然に出来るものだ。

近所の子供達と遊ぶようになって、その子達の持っている物や着ている物、
住んでいる家や家具、家庭環境、そして食べている物まで、
私達兄弟とは、まるで違うことに、一種のカルチャーショックを覚える。
だが、それは私達が「貧乏」だからだとは、まだその頃の私には
気付いていなかった。

友達の家に遊びに行けば、そこにあるのは初めて見る物ばかりだ。

この時代に「三種の神器」と言われていた、テレビ、洗濯機、冷蔵庫をはじめ、
電話、石油ストーブ、扇風機、炊飯器、お湯の出る流し台、
水漏れしないお風呂、水でウンコが流れるトイレ、
そして「お父さん」の運転するクルマ・・・
近所の子供達は、三輪車や自転車まで持っている。
そのどれもが、私の家には無かった。

当然、「父親」という存在がうちにはいないことにも気付いた。
だが、それも大した問題ではない。
今までも、そんな人がいなくて充分に楽しかったし、必要だとも思わなかった。


戦争が終わって、たったの二十数年とは言っても、
当時の日本は、高度経済成長期の真っ盛りであり、戦後の傷跡も匂いも、
もう、ほとんど感じることがないほど、日本人の生活は豊かになっていた。

そんな時代に、私は「ビー玉」と「メンコ」くらいしか持ち合わせていない。
近所の子供達の家にはよく遊びに行ったが、彼らをうちに連れて来ることは
なかった。
子供ながらに恥ずかしかったのかもしれない・・・

しかし、私は弟と共に、いろいろ工夫して遊んだ。
木の枝でパチンコやブーメランを作ったり、笹の葉で船を作ったり・・・・
山や川に行けば、石ころひとつでもオモチャになる。


この頃、私には大好物になった食べ物がある。
なんのことはない。 ただの握り飯なのだが、
それまでの私が知っている握り飯とは、まるで違う握り飯を、発見する。

近所の「マモル」という友達と外で遊んだ後に、彼の家に寄ると、
マモルの母親が、「腹減ったろ」と言って、台所で握り飯を作ってくれた。
その握り飯は、温かかったのだ。

ちょうどこの当時は、世界初の保温式の炊飯器が発売され、三種の神器と共に
各家庭に普及されてきた頃である。
私の家に限らず、それまでは、米を保温できる機械もなければ、電子レンジも
まだ、一般家庭にはなかったため、炊き立ての米で握り飯を作らない限り、
温かい握り飯になど、出会うことはなかった。
しかも、マモルん家の握り飯には、中に「おかか」まで入っていて、回りには
海苔まで巻いてある。
「世の中にこんな美味いものがあったのか」と、感じたほど美味しかった・・・
ばあちゃんのいる世田谷のボロアパートで、夜中におふくろがこさえてくれた
塩味だけの米の団子のような握り飯も美味かったが、これはまるで別物だ。

私の家では、鍋で米を炊いていたので、この温かい握り飯を食うためには、
母親に炊き立ての米で作ってもらう必要があった。
その日以来、食卓に温かくて、具が入っていて、海苔が巻いてある握り飯を
リクエストする日が多くなった。

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母は、私達兄弟の食事を作ってくれる時意外は、ずっと机にかじり付いていた。

それでも、寂しいと感じたことはなかった。
自分達の目の届く場所に、母親がいるだけで幸せだった。


しばらくたったある日から、私達親子3人の生活はガラリと変わった。

そう、「あの男」が私達の家に突然やって来たのだ・・・・


  
                   続く


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2008年5月15日 (木)

生い立ち (2) 引越し

しばらくそんな生活が続いて、私がもうすぐ4歳になろうとしていたある晩、
いつものようにちゃぶ台を囲んで皆で食事をしていた。

その日の献立は珍しく焼き魚だった。
それは赤色の魚で、いつも見ている「めざし」という魚より断然大きかった。
ちゃぶ台の真ん中に一匹だけ「ドーン」と置いてあり、
その脇には、赤くて豆の入ったお米がある。

初めて見るものばかりだ・・・


皆、なかなか手を付けようとしない。

母親が私に

「食べていいのよ」

と言ったので、私はその魚の目玉を突き始めた。


皆、黙ったままだ・・・

なんだか、神妙な雰囲気の中、
その沈黙を破るように、突然兄貴が少し震えた声で話し始めた。

「まあ、めでたいことじゃん。良かったな姉貴!」

兄貴はそう言うと、すぐに下を向き、涙をポロポロとこぼし始めた。

姉貴はそれを見て、

「ごめんね・・・」

と言って、やっぱり下を向き、声を抑えるように、
そして鼻をグスグスとさせて泣き出した。

私の箸は止まった。

私は自分が何か悪いことをしてしまったのかもしれないと、
ドキドキしながら皆の顔を覗った。

皆、下を向いたままだ。


しばらくまた沈黙が続いた後、今度は母親が話し始める。

「和美ちゃん、凄くいい話だと思うわ! おめでとう」

私は、何がなんだか分からないまま、控えめに母親に聞いてみた。

「ねえ、どうしたの?」


「お姉ちゃんはね、もうすぐ結婚するの」

「けっこん?・・・ けっこんって何?」

まだ3歳とはいえ、もうすぐ4歳になる子供が結婚の意味も分からないと
思うかもしれないが、当時の子供達は、現代の子供達ほど言葉が達者では
なかったと思う。
まして、私の家にはテレビもなかったので、普段の家族の生活で使う
言葉以外は、あまり知らなかった。

「結婚って言うのはね、お姉ちゃんが好きな人と一緒に暮らすことなの」

母が私にそう説明してくれたが、私にはあまり理解できていなかった。
というよりも、母親の口から出た

「お姉ちゃんが好きな人・・・」

と言う言葉に、戸惑いと焦りを感じた。

悲しいと言うよりは、怒りにも似た、裏切られたような感覚だった。

単なる「嫉妬」である。


私は急に不機嫌になった。

「結婚」という意味は分からなくても、お姉ちゃんに好きな人がいることと、
この家からいなくなってしまうということだけは、察知した。

「だからみんな悲しいんだ・・・」 そう心の中で理解した。


「お姉ちゃん! けっこん止めなよ! ここにずっと一緒にいてよ」

私がそう言うと、ばあちゃんが

「こっちにきんしゃい(おいで)」

と言って、私を膝の上に乗せてくれた。

ばあちゃんは時々こうして私を膝の上に乗せてくれる。
かなりのヘビースモーカーで、いつもキセルにピースの
葉っぱを詰め込み、幸せそうな顔をしてそれをくわえる。
もちろん私の側では吸わないが、ばあちゃんの膝の上に乗ると
いつもタバコの葉っぱの匂いがする。
でも、嫌いな匂いではなかった。
むしろ、私にとってはこの匂いが、ばあちゃんの匂いだった。

いつもはこの膝の上で、私がばあちゃんにリクエストすることがある。

「クシャばあちゃん」だ。

入れ歯を全部外して、顔をクシャっと、それこそ顔の半分くらいまで縮めるのだ。
私は、それがおかしくて、大好きだった。

でも、この時ばかりは私もそれをリクエストしなかった。

膝の上から、ばあちゃんの顔を覗き込むと、シワが一杯で判りづらかったが、
目から涙のようなものがにじんでた。

よく意味のわからない日だった・・・

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こうして、和美姉ちゃんはこのアパートの部屋から出て行った。

兄貴は大学が受かったらしく、学費を稼ぐために、
夜は工事現場に出かけ、そのまま新聞配達をして学校に行くという
生活が始まり、部屋にはほとんど帰って来なくなった。


なにかしらの家庭の事情だか、大人の事情があったのかもしれないが、
その後、おふくろと私と弟の3人は、このアパートを離れ、
八王子に引っ越して行くことになった。

あの部屋は、ばあちゃんと兄貴の2人だけになった。


そして、八王子に越して来た私達親子3人には、
また新たな生活が待ち構えていた・・・ 


             続く

    

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2008年5月 6日 (火)

生い立ち (1) 家族

まるで実感はないのだが、
本日、5月5日の裁判をもって、12年間続いた離婚裁判に
終止符が打たれた。


5年、あるいは10年間付き合った女性と結婚することもなかった私が、
名前しか知らない女性と、たった2週間の付き合いで結婚してしまった。
今考えれば、無謀である。
たった2年間の結婚生活の後、12年間も離婚に費やすなんて思ってもいなかった。


離婚裁判が長引いてしまったことに対して、私の弁護士が、
申し訳なさそうに何度も謝っていた。

そして、相手の弁護士もまた、私に謝ってきた。

彼女の弁護士は、これで3人目だった。
過去の2人の弁護士達は、彼女側であるにもかかわらず、

「彼女の目的が分からない・・・」

と言いながら、彼女と揉めた挙句、彼女に解任させられていった。


それは、何だったのだろう・・・

女の意地なのか、憎しみなのか・・・・金なのか・・・

少なくとも、「愛」でないことだけは確かである。


何かを争っていたわけではない。
私が何か「否」を犯したわけでもなかったので、慰謝料などは
存在しないが、(元々、アメリカには慰謝料は存在しない)
私は、彼女に一軒家も譲り、店が火事により1年ほど営業出来なかった時も、
ホームレス状態で車に寝泊りしながら仕事を続けていた時も、
この12年間欠かさず充分な生活費を送金してきた。

おかげで、私は膨大な借金を背負ってしまった。

だが、こういった私の人生は、宿命なのだとも最近思う・・・

もちろん、お金だけの問題ではないが、
もし、私が自分の親父がそうであったように、家に金も入れず、
たまに帰ってきては、暴力を振るい、家族に借金までも残すような
不良親父であったなら、もしかして相手から

「何もいらないから、お願いだから早く別れてください」

と、スムーズに離婚できていたかもしれない・・・・


だが、私の心の奥には、ずっと昔から潜在的にあった気持がある。


「親父のような人間だけにはならない」と・・・

「俺達兄弟や自分の母親が味わって来たような思いを、
自分の子孫には絶対にさせない」

「自分がもし父親になったとき、たとえ家族の側にいられなくても、
自分が、そして子孫が、世間から後ろ指刺されるような、
そんな生き方はしない」と・・・・


幼少の頃の話を少ししたいと思う・・・


私は、断片的ではあるが、2歳からのいくつかの記憶がある。

目を手術したこと・・・
手術室に行くまでの廊下で、私は看護婦さんの手を握りながら、
「痛くない?」
としきりに聞いていた。

ずいぶん歳の離れた姉貴が、私をおんぶして母親の働く
ミシン工場の職場まで連れて行ってくれたこと・・・

公園で砂遊びをしている私を見下ろしながら、

「あなたに弟が出来たのよ」

と言っていた母親の笑顔・・・


もの心ついた頃の私達家族の生活は貧乏だった。
正確に言うと、私は小学生になってからやっと

「この生活が、世間で言う<貧乏>なんだ」

と、気付き始めた。


それが救いと言えば救いである。


何よりも、「家族」というものの定義がハッキリしていなかった。

東京世田谷の川べりに竹やぶがあった。
その竹やぶの中にひっそりと6部屋2階建ての木造アパートがあり、
その1部屋に我々は住んでいた。

六畳一間に、共同便所、共同台所、風呂無しという、
要するに部屋ひとつしか住むスペースのない所なのだが、
そこに、ばあちゃんと、当時高校を卒業したばかりの姉貴と
高校生の兄貴、私の母親、そして私の5人がぎゅう詰めになって住んでいた。

「私の母親」と書いたのは、姉貴と兄貴の母親は別の人で、
もう死んでしまったと言っていたからだ。(実際は死んでいなかったらしいが・・・)

母親と姉貴は、7~8歳ほどの歳の違いしかなかったが、
姉貴は母のことを「ママ」と呼んでいた。
兄貴は、それが照れくさいのか、あるいは自分の本当の母親に
遠慮しているのか、「玲子さん」と母を名前で呼んでいた。
ばあちゃんというのは、父親の母であり、母親にとっては、
私が唯一の血縁であった。
もっとも、当時2~3歳の私には、そんなことどうでもいいことである。


六畳一間に5人で生活するというのは、試してみれば分かると思うが、
かなりシンドイことなのだ。
押入れがひとつあったが、その中にはかけ毛布が数枚と、
それぞれの服が、たたまれて置いてある。
敷布団や枕など見たこともない。
タンスのひとつもなく、テレビも電話も・・・・・・そう、何もなかった。
そもそも、それらの物を置くスペースさえもない。
あるものと言えば、小さいちゃぶ台がひとつと、
兄貴が大切にしていたトランジスタラジオだけである。

私にとって「苦」だったのは、物がないことではなかった。
だいたい、幼い私には「物がない」という意識すらなかった。

寒ければ、ぶるぶると震えて我慢すればいい。
暑ければ、汗だくになって我慢すればいい。
季節があるのだから、寒かったり、暑かったりするのは
当たり前のことだ。

「家族のあり方」も「生活環境」も、全て「他」を知らなければ、
それが当たり前なのである。

ただ、「空腹」だけには勝つことが出来なかった。

だがこれも、どんなに金持ちの家庭に生まれてきた人間だとしても、
腹は減るので普通のことだ。

私が栄養失調にもならず(むしろ健康優良児だった)、
生きてこれたのは、家族の愛があったからだと思う。


3歳くらいまでの私にとって、一番の悩みは「夜中のトイレ」だった。
その共同便所は、野外にあって一度外に出なければならない。
真っ暗な竹やぶの中を通って行くのだ。
おそらく、アパートの出口から7~8メートルほどだったのだろうが、
当時の私にとっては、何百メートルにも続く魔界への道のりだった。

私は、いつ自分がオシメを卒業したのかを覚えてないが、
1人で用を足せるようになってから、家族の寝ている部屋を出て、
その便所まで歩いていくのが怖かった。(ほとんど1人では行けなかった)
まして、ボットン便所だったので、落ちてしまうんじゃないかとか、
カッパの手が伸びてくるんじゃないかとか、想像を巡らし、
寝ていても、夢と現実が交差して何度もカッパに襲われた。

まあ、その程度である。


朝起きると、ばあちゃんはいつも裏の川で洗濯をしていた。

兄貴は、毎朝新聞配達を終わらせてから高校に通い、
夜は部屋の外の共同台所の隅にみかん箱を置いて、
ロウソク一本の灯を頼りに、大学の受験勉強をしていた。
お蔭で視力が落ちて、家族内では唯一メガネをかけていた。
そんな兄貴は獣医になりたいと、いつも言っていた。


そこに今度は、弟がやってくる・・・


ばあちゃんも、上の兄弟2人も、私には本当に優しくしてくれた。

母親が働きに出てる間、姉ちゃんはよく私と遊んでくれた。

雪が降るある冬の日に、いつもの如く私が
「お腹すいた」
と言うと、姉貴は困った顔をして少し考えた後、ニコニコしながら外に飛び出し、
雪をお椀に山盛り入れて、そこに砂糖水を垂らし、
「カキ氷だよぉ~」と言って食べさせてくれた。
ぶるぶると震えながら、姉貴とそれを食べた記憶がある。


兄貴は週に2回、近所の銭湯に連れて行ってくれた。

ばあちゃんは時々こっそりと私にコンペイトウを一粒くれた。

そんな生活に弟が加わって間もなく、私と弟の2人は
昼の間だけ、ある保育施設に預けられることになった。
内職で「甘栗の袋」を作っていたばあちゃんの他は、
昼間は留守なので、まだ幼かった私や弟の面倒を見れる
人がいなかったからだ。


弟は0歳から預けられていたので、施設ではいつも泣いていて、
先生達が困っていた。
そういう時は、私が弟のいる部屋に呼ばれて、弟をあやした。
私を兄貴と判っていたのかどうか知らないが、私が行くと
不思議と弟は毎回ピタリと泣き止み、機嫌がよくなるのだ。


私はまだ幼かったので、何も気付いてはいなかったけれど、
家族は皆、常に空腹だったんだと思う・・・

時々、夜になると兄貴が
「散歩に行って来る」と言って出かけることがあった。
しばらくして、泥の付いたままの大根やキャベツを持って帰ってくる。
それを煮物にしたり、炒めたりして、全員でひとつの皿を無言で突くのだ。
その頃は、深く考える余地もなかったが、それらの野菜たちは、
明らかに八百屋から買ってきたものではなかった。
「塩」だけで、ご飯を食べることもあった。


兄貴は、畑の野菜の採り方を教えてくれたことは一度もないが、
道端に生えている食べられる雑草や、木の皮などの種類を教えてくれた。

ある時、私は皆が食事をしているちゃぶ台の下に潜って遊んでいると、
母が自分の食べている御飯を、ひざ元に隠してあった新聞紙に
こっそりと乗せ、他の皆に分からないように包んでいたのを、偶然見てしまった。
私は、ちゃぶ台の下から母親に

「何してるの?」

と聞くと、母はとっさに私の口をふさぎ、

「こんなところに潜って遊んだらダメでしょ!」

と言って、何もなかったかのように、大人同士の話を始めた。


あの頃は夜中に皆が寝静まった時間になると、
私はお腹がすき過ぎて、寝ている母を起こすことが度々あった。
そんな時、母は他の皆を起こさないように、そーっと私を共同台所に連れて行き、
どこからともなく握り飯を作って食わしてくれた。

中には何も入ってないし、海苔も巻いていない、
冷たくてゴワゴワした握り飯だったが、
ちょっと塩味がして美味しかった。
私は、台所の母親が見ている横でそれを食べ、
部屋に戻って、安心してまた眠りに就くのだ。

母が自分の食べる米粒を、時々ちゃぶ台の下で隠していたのは、
私に食わせるためのものだった。

母は、あの家族の中でも、私と弟がいることによって何らかの片身の狭い
思いをしていたに違いない。

だが、それはきっと母親だけではなく、ばあちゃんも、姉貴や兄貴も
それぞれが違った状況や環境の中で、それぞれの思いがあったはずなのだ。

それでも私にとっては、あの頃の「家族」が一番家族らしい「家族」だった
のかもしれない・・・・


                     続く

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