生い立ち (6) 親父
私と弟は、さほど気にしていることではなかったが、
週に1度程、私が寝入ってしまった後の夜更けに帰って来ていた親父も、
いつしか2~3ヶ月に一度しか家に寄り付かなくなっていた。
親父が帰ってくる日は、すぐに分かった。
そういった日は大抵、母親が夕方から化粧をしているからだ。
スラム長屋の前の細い砂利道を、道幅いっぱいに黒塗りの国産車が
砂けむりと共にやって来て、そのオンボロ長屋に横付けされると、
運転席と助手席から、これまた真っ黒なスーツにサングラスを掛けた
大男2人が降りてくる。
そのうちの1人が後部座席のドアを開け、そこから親父が降りて来るのだ。
親父は、いつも一晩だけ家に泊まり、次の朝早くにまたどこかへと出かける。
その間、大男達はずっと隣りの空き地に駐車した車の中に待機している。
一度母親が、
「お茶の一杯でもどうですか?」
と、車の中にいるその男達に声をかけたことがあったが、
彼等はかたくなに拒むので、母は彼等のために握り飯をこさえた。
私は母に頼まれ、その握り飯と水筒に入れたお茶を車まで
持って行ってあげたことがあった。
ちょっと怖かったが、その2人は喜んでその握り飯を食べてくれた。
彼等は私のためにチラシ広告の裏に「鉄人28号」の絵を書いてくれたり、
いろんな「お化け話」などをしてくれたりして遊んでくれた。
だけど、親父は一度もそうやって私達と遊んでくれたことはなかった・・・
それでも、私と弟には父親が帰ってくる日を楽しみにしていた頃もあった。
必ず何かおみやげを持って来てくれるからだ。
それはクレヨンであったり、画用紙であったり・・・
時には、バナナの苗木を抱えて来ることもあった。
食べられるバナナではなく、バナナの木だ。
そのバナナの木を母と弟との3人で、庭の土に埋めた覚えがある。
いつバナナの実がなるのか、いつも楽しみにしていたが、
時が経つにつれ、そんなバナナのことも忘れてしまっていた。
それでも木はどんどん大きくなっていた。
その木に初めて小さなバナナの房が付いたのは、あの苗木を植えてから
9年後の夏だった・・・
それは、皮肉にも市の区画整理のために私達が住んでいた長屋が
取り壊される寸前のことだった。
なぜあの時「バナナの木」だったのか・・・・
それは、親父がフィリピンから持ち込んで来たものだった。
当時の私は、親父が何者かなんて知らなかった。
ただ、分かっていたことは、あの頃の親父はフィリピンを拠点にして、
世界中を飛び回っていたということだけだ。
親父は、国際的な警備会社を立ち上げたらしく、
フィリピンの大統領の護衛に就いていた。
当時のフィリピンは、マルコス大統領の独裁政権下にあり、
大統領は、いつ命を狙われてもおかしくない状況下にあった。
父親がたまにフィリピンから家へ送ってくる手紙の内容までは忘れたが、
手紙と一緒に入っていた写真には、マルコス大統領や
イメルダ夫人と一緒に写っている父の姿があった。
あの頃の電話帳に登載されていた私達の家の番号を引くと、
ここの長屋のボロ部屋の住所は、いくつもの会社の事務所として
登録されていた。
そこには、警備会社の他、探偵事務所、精密機械工場、
はてまた、極東○○連合支部などという訳の分からない名が
登載されていた。
ここは、ただのオンボロ長屋なのに・・・・・
なぜフィリピンだったのかは、後に私の姉貴に聞かされて納得した。
話がややこしくなるので、ここで少し私の知っている限りの
親父の人物像を記しておく。
父は大正15年(大正最後の年)生まれなので、
現在は84歳であろうか・・・・
先の大東亜戦争(第二次世界大戦)の折、
10代だった父は戦闘機部隊としてフィリピン戦線に駆り立てられた。
その時にフィリピンの、ある政治結社と何らかのコネクションを作り上げたようだ。
父がちょうどハタチの時に終戦を迎え、本籍の広島に戻って
地元で愚連隊?を結成した後、東京に進出して来た。
その後の20年間のことは知らないが、日本とフィリピンを往復しながら、
何かの仕事をしていたらしい。
40歳になった父はお袋と知り合い、結婚した。
だが、その時父には、すでに何人かの子供が存在していた。
私が姉貴と呼んでいる人は、父の一番最初の子供だが、
その下に兄貴がいて、この2人は、あの6畳一間で私と一緒に暮らしていた
兄弟である。
その兄貴と私の間にも、また違う異母兄弟が日本各地に存在するようだが、
私は直接会ったこともなければ、情報もない。
姉貴はもうすでに60歳を超えているので、私とは20歳近く歳が離れている。
父には現在も、どこかの国に現地妻と6歳になる娘もいると言うから、
一番上の姉貴とは、50以上歳の離れた姉妹が存在することになる。
ちょっと考えにくいことだが事実である。
いったい、私には何十人の兄弟がいるのだろうか・・・
これらの情報は全て、姉貴からのものだ。
後に獣医となった兄は、今でも時折フィリピンを訪れているので、
姉貴の情報源は、兄がそこで父と接触した内容を聞いているのだろう。
私は父親について、兄と直接話しをしたことはなかった。
だいたい父の情報なんて、私には必要なかった。
しかし、姉貴はというと、我々が聞いてもいない色々な情報を、
わざわざ電話までしてきて私や私の母に話すことがあった。
その度に母は、悲しそうな顔をするので、止めてもらいたかった。
私の母、私、そして私の実弟の3人にとって不幸だったのは、
父と母が正式に結婚していたことである・・・・
普通なら、側室や内縁の妻でないことは、
母にとって決して不幸なことではなかったはずだ。
しかし、これも母の選択だったのだろう・・・・
私達3人は、後に膨大な借金を背負わされ、路頭に迷うことになる・・・・・・
続く
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